End3:そして彼らは舞台を降りた


選択肢
・翻訳ルート開通
・本編19幕から分岐/自害を選べなかった場合
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「私を殺せ」と、命じられた。
 巨大な蛇が、頭をもたげる。腰に下げた剣の柄を握る。驚くほど冷たい感触がした。
 指が、腕が、急速に冷え込んでいく。
(演じなければ。演じるのが仕事ならば、そこに俺の意思を介在させてはいけない)
 シュンリン・クロンヴァールは姫を恨んでいる、冷酷な騎士なのだ。
 剣を抜き、大蛇に向かって構えた。足が震える。しっかり立たなければ、弾かれてしまう。意識して重心を落とした。
 恐怖に歪んだ表情は、とてもシュンリン・クロンヴァールのものではないだろう。
 だけれど幸い向こうの役者は、こちらの大根ぶりには目をつぶることにしたようだ。
 大蛇の頭が迫る。タイミングを合わせるなんて器用はことはできない。だからただ真っすぐに、剣を構えていた。
 大蛇の鼻先に、刃先が突き刺さる。想定したよりも質量はない。柄を握る手は真っ白になっていることだろう。
 衝撃に歯をくいしばる。遅れて、生暖かい液体を全身に浴びた。視界が赤く染まる。

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 Halfの翻訳に失敗した。
 俺はいつもそうだ。何をやっても上手くいかない。
 俺にも里利由のためにできることがあるのかも、だなんて、少しでも考えたのが間違いだったんだ。
 刺されたのが後輩の女子演じるフーリュ姫でなく、ウイジオだったのが不幸中の幸いだ。
「もう一度頑張りましょう!」
 棟の声に応えずそこでやめておけば、不幸中の幸いのままだった。
 正規のシナリオで刺されるのは、フーリュ姫で、棟だった。

 シナリオ通りならば規定路線だ。だけれど、既定路線なら規定路線なりにやりようはあったはずだ。
 刺す側も刺される側も演者なら、刺すフリだってできた。けれど俺はそれに気づかず、棟に体を張らせてしまった。
 棟は倒れ、代わりの要員としてあてがわれた人形師とともに、俺はHalfの翻訳を完遂した。
 完遂したのは、せめてもの責任取りだ。ここで逃げたら棟に申し訳が立たない。それだけだ。

 健気にこちらを導こうとしてくれる女子を傷つけるようなことは、二度としたくない。
 ベテランの翻訳者に、おんぶだっこで仕事をしたところでお荷物にしかならない。
 かといって一人でこなすには、俺は翻訳という仕事が怖くなっていた。

 里利由のためになんでもすると言った、病室での言葉はなんだったのか。
 これだから。俺はこうだから。ずっと、ずっと。

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 折り鶴一万羽を折ると言った約束のために、里利由の病室を訪れる。
 否、それは建前だ。本当は懺悔しにきた。物言わぬ抜け殻の里利由の前でしか零せない言葉をこぼす為に来た。
 飾られた折り鶴を見上げる。なかなか壮観な量になってきている。今は三千五百羽くらいだろうか。
 見舞客が減ってきているので、最近は増殖ペースが落ちているのだ。
 この折り鶴は、何も俺一人で作っているわけではない。
 作り始めたのは俺とかぐやだけれど、それを見た里利由の両親が、病室に折り紙を置くようになった。
 以降、気付いた見舞客がお見舞いの間に2つ3つ折っていくようになったのだ。
 里利由の両親も作っているだろうし、田空賀もたぶん折っている。俺が一番暇だから、俺が作っている数が一番多いというだけだ。
 無心で鶴を折っている間は、胸を刺す罪悪感が少しは薄れる。なんと情けない。なんて浅ましい。
 無駄に伸びた手足を小さく丸めた後ろ姿を、どう思ったのか。
「おや、きっちゃん奇遇だねえ!」
 たぶんなんとも思わなかったのだろう。きわめて普段通りの幼馴染の声が病室に響く。
 今は、里利由には最も会いたくなかったのに。


「じゃああたしと翻訳しようよきっちゃん。」
 久々に気分転換がしたいとという名目で、里利由はすっかり臥せっていた俺を外に連れ出した。田空賀付きだ。
 微妙な空気のカラオケボックスを出て、ゲームセンターで田空賀を無慈悲に瞬殺した。その後、ファミレスでのこと。
 田空賀奢りの薄いステーキを切り分けながら、目の前のぬいぐるみに向かって話しかける。
「もう、翻訳はしたくない。」
「そうかい?残念だねえ……。本の世界では人間の姿に戻れるって聞いたし、きっちゃんに頼りっぱなしもよくないからあたしもやろうと思ったんだけど。」
 人間に戻れる?それは聞いてない。そういうもんなのか。里利由は丸い体をころりと前に倒した。多分頷いている。
「だったら俺じゃなくて、ベテランの翻訳者と組めば……」
 言いかけて、Halfの後半で世話になった人形師を思い浮かべる。田空賀といいあいつといい、浮遊街の社員はどうも変態臭い。
 それと二人きりで異世界に飛ばされる。この警戒心のない女子が。それもなんだかまずい気がしてくる。
 正直やりたくはない。ないのだけれど。
 里利由の立場を思えば、俺が一緒に翻訳するのが安全だ。
 この幼馴染を傷つけてしまうかもしれないことは恐ろしいけれど、なんやかんや器用な奴だ。
 こいつは俺相手でも上手く立ち回れるかもしれない。
 賭けてみるか。俺だって、投げ出してしまうばかりの自分は嫌なんだ。

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『SolitudeVerte』を里利由と翻訳した。
「なんだその変顔。顔のあらゆるパーツが四角いんだけど。」
「セデュイィさんはあまり表情の変わらない子だから、無表情!」
 ヒロインの性格が里利由にまったく合っておらず、ひどい大根ぶりを見た。俺に言われるんだから相当だ。
 こいつにも苦手なものがあるのかと、どこかでほっとした自分が嫌になる。でも、少しだけ肩の力は抜けた。


 演技を除けば、里利由との進行はかなり順調だった。シュンリンに比べれば、アハブバルドはかなりわかりやすく演じやすい。
「セデュイィはいい嫁さんになるなー。」
 歯の浮くようなセリフは苦手だけれど、里利由相手だと思えば意外とすんなりと口に出せる。
 その後、お互いに単独で訳すシーンがあったけれど、二人で意見を出し合ってなんとか乗り越えることができた。
「里利由はすごいな。」
 こんな未知な仕事でも器用にこなせてしまう。パートナーが俺でも、そつなく。どうしてこんなにも違うんだろう。
「きっちゃんがいるからね!」
 俺でも、里利由と一緒にいればどうにかなるのだろうか。ダメになりそうな俺を、制御してくれるだろうか。
 助けてくれ、傍にいて支えてくれ。そう請えば、この幼馴染はきっと俺を見捨てはしない。
 かつて俺にそう言った、長い黒髪の女子を思い浮かべる。
 わかってる。それは依存だ。特に俺の場合、無限にある里利由の可能性を潰してしまう。それだけはできない。
 里利由と俺は決して対等ではない。だからこそ、完全に寄りかかる無様だけは許されない。
 それが、こんな俺を「親友」だと言ってくれる里利由のために唯一できる返礼だ。
 そんなことしかできないことが、情けなくて仕方がない。

 夏休みは、ほとんど里利由と一緒に過ごした。
 できることは限られているので、映画をレンタルしたり、勉強したりが主だ。母さんに不審がられるから話し声は控えめにする。
 屋内に居続けると体が鈍る気がするので、合間に里利由をひっつけて走り込みに行ったりもした。
「僕もたまには走ろうかなあ。」
 などと言って田空賀が参加した回もあったけれど、2キロ走ったところで振り返ったら奴はいなかった。
 汗だくで家に帰って、シャワーを浴びる。里利由が入ってこようとするのを、慌てて締めだす。
「えー?ぬいぐるみだから大丈夫だよね?」
「何をもって大丈夫だと思ってんだよ。俺は人体なんだよ。」
 ぬいぐるみ姿なのをいいことに、里利由はほぼ毎晩俺の家に泊まりに来た。まあ、男の教師と一緒にいるよりは気楽なんだろう。
「さー、今日は理科だよきっちゃん!電気のとこの復習ー。」
「クッソ宿題は終わったのになんでまだ勉強しなきゃならないんだ…!」
 そのおかげで、夏休みの宿題が完遂されてしまった。テキストは勿論、美術の課題に読書感想文までだ。
 読書感想文に選んだ本は「山茶花の迷宮」。ラフィーレ・ロズブリュムの傾向を掴んでおけば翻訳も進めやすいだろうと考えたためだ。
 はじめのうちは、主人公のヤシロに共感して読み進めていた。いじめられっ子で、気弱で、自分の自信が持てない少年。
 だが、最後にはヒロインの山茶花に感情移入していた。だってそうだろう。
 無限の未来を持つヤシロを、自分のためだけに、自分の迷宮に閉じ込めておくことは許されない。
 好きだから、山茶花はヤシロを手放した。
 その気持ちは痛いほどわかる。
「きっちゃん!11時だよ、もう寝よー!」
「夏休みくらい夜更かししてもいいだろ…。なんだこの健康な過ごし方。おい毛玉くっつくなよ暑いだろ。」
「えー、きっちゃんと一緒におふとん入るなんて今しかできないのにー。」
「……。首は汗かくから、首元じゃなくて、枕元こい。」
「はーい!」
 一年前、俺は黒髪の少女の手を離した。
 今枕元にいるピンク色の毛玉は、いつ離す?

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 道端で園児が泣いている。転んだらしい。膝が擦りむけている。
 俺が声をかけたところで傷は治らないし、怖がらせるだけなので無視して家に帰ろう。
 と、塀の影に隠れていたとは思えない、大きな人影が園児の前に立った。青磁色のローブをまとった大柄な…多分男、か?
 不審者だとしたら流石に捨て置けない。足を止めて様子を観察する。
 園児は泣くのも忘れて怯えている。男が、傷口に手をかざす。
「……?!」
 傷口が、消えた?礼を言うこともできず呆然とする園児。今のは、なんだ。
「あなたは今、誰のために生きているのですか?」
「……あ?」
 声が下から聞こえた。よく通る、凛とした声だ。
 ウェーブのかかった髪をふたつ結びにした女児が、こちらをまっすぐに見上げていた。
「蘿蔔里利由を助けたければ、あなたは浮遊街でなく我々につくべき。」
 浮遊街、だって?
「蘿蔔里利由を元に戻すための手段は、我々の手の中にある。今のあなたは、浮遊街に体よく利用されている。」
 園児の傷を治した男が、こちらに向かって歩いてくる。
「誰だお前。」
「我々はマサクル・ピンギキュラ。―あなたは浮遊街を、信じてはいけない。」
 それだけ言って、女児は男に小走りで近付く。男は女児を持ち上げ、そのまま歩いていった。

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 提灯のオレンジ色の明かりの下を歩く。ぬいぐるみと一人では不審なので、田空賀も来ている。財布にしてやろう。
 俺たちは、夏祭りに来ていた。
「こうしてみると、わたあめみたいだな。」
「へっ?あたしのこと?おいしくないよ?」
「わたあめ食べたいの?買ってくるね!」
「来なくていい。あれ甘すぎて苦手。買うなら…焼きトウモロコシ。」
「わ、わかった!ええと、焼きトウモロコシ…」
「見つけたらでいい。」
「そ、そうだね。」
 一緒にゲーセンに行った時から、こちらを見て怯える目が少しだけましになったように感じたのだけれど、田空賀はまだまだ俺を恐れているようだ。
 いい大人が、こんなクソガキの何を怖がっているんだか。
「あー、あの浴衣いいなーかっこいー。」
 金髪ギャルが着ている黒の浴衣を尾?で指す里利由。紫色のアイリス?柄のそれは、彼女たちには似合っているけれど、里利由にはまだ早い気がする。
「蘿蔔さんには、白い方が合うと思うな。」
「いや、水色だろ。」
「どっちも持ってるよ!まだ着られるかなあ。」
 着られるんじゃないのか。これといった弱点のない里利由だが、身長だけは伸びが悪い。
「来年は着られるようにしような。」
「うん」
 根拠はないけれど、そう言っておく。
 焼きトウモロコシの屋台を見つける。買ってくる、と言って田空賀が人混みに消えていく。
 今まで流れていた汐形音頭が一旦終わり、再び頭から再生される。
「いいなあ、盆踊りしたいねえ。」
 音楽に合わせて里利由が身体を揺らす。田空賀が戻ってきたら、盆踊りをやっている広場に行ってみるか。
 返事代わりに、ぬいぐるみの頭を撫でた。お面やらアニメ柄の綿あめ袋やらが溢れている祭り会場では、ぬいぐるみはさほど目立たない。
 それを持っているのが俺だって点は、知る人が見ればおかしいのかもしれないけれど、幸いまだ知っている顔は見ていなかった。
 行き交う人々をぼうっと眺めていると、足元から声が聞こえた。
「あなたは今、誰のために生きているのですか?」
「お前。」
 出店で売られていたお面を被っているが、特徴的なツインテールには見覚えがあった。
 以前、マサクル・ピンギキュラと名乗った女児だ。
「どちらさまかね。」
 里利由が尋ねる。突然ぬいぐるみから声が上がったにも関わらず、女児はなんら動揺を見せない。
「問《クエスチョン》、あなたは今、誰のために生きているのですか?」
 その質問好きだな。しつこいので、答えてやる。
「……里利由って言えば満足か。」
 当人が傍にいるのに、そういうこと聞いてくんなよ。
「蘿蔔里利由、折本キハル、我々に協力するならば、我々もあなたたちの目的に手を貸す。」
 女児はそれだけ告げると。石段を下りて祭りの喧騒から離れていく。
 俺たちの目的に手を貸す?俺たちの目的は、里利由を元に戻すことだ。
 脳裏に、子供の傷を治した男の姿が思い浮かぶ。あいつの能力を使えば、里利由も戻せたりするんだろうか。
 未だに解決方法を提示しない浮遊街よりは、可能性がある気がしてくる。
「ええと、きっちゃん?」
「追うぞ、里利由。」
「え、先生は?」
「………。」
 無視して石段を下りる。田空賀は、ダメだ。
 あいつは浮遊街についての質問に「機密事項だ」と言って答えないことが多い。
 悪だくみができるタイプではないけれど、上からの圧力に逆らう胆力もない。すなわち、浮遊街という組織の下僕だ。
 あの女児は多分、浮遊街に敵対する勢力なんだろう。そいつに付いていくなら、浮遊街には連絡できない。
 田空賀に知らせたら、止められてしまう。
 
 何かあった時、俺一人で里利由を守れるだろうか。
 でも、浮遊街が信じられないなら、田空賀も信頼できない。
 ……守れるだろうか、じゃない。守るんだ。里利由のために動いている時だけが、俺という人間の価値ある時間なのだから。
 これから会場に向かうのであろう父子とすれ違う。子供の弾む声が、後ろへ流れていく。
 祭りの喧騒が、小さくなってゆく。

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 和太鼓が聞こえなくなって暫く。
 背後がパッと光った。遅れて、ドンという音がする。花火が打ち上がったのだ。
 15分ほど歩いただろうか。女児は住宅街の真ん中で、フードの人物と合流した。
 この暑苦しい中よくそんなものを着ていられるものだ。ちらりと見えた顔には、大きな縫い目があった。
 携帯電話が震える。着信には出ていない。
 里利由と一緒に翻訳の仕事をする上で、会社から携帯電話を貸与されていた。名義は里利由のものだが、二人でいる時は俺が持っている。
 田空賀から「今どこにいるの」というメールが来ていたので、それに「用事ができたので帰っていい。」と返事をした。
「ごめんね先生……。」
 再び着信。帰っていいって言ったはずなんだけどな。
 携帯電話をポケットから取り出したところで、三人目の人物が現れた。背の高い男だ。
 体格的に、前に会ったローブの男とは別人だろう。。暗がりでよくわからないが、嫌に整った顔をしている気がする。
「……うん。サクリくんたちは上手く織園を陽動しているよ。早く合流しないと向こうの負担が大きいし、こちらもさっさと済ませよう。」
「………。」
 ここまで来るのに一度も振り返らなかった女児が、こちらを見やる。とうに面は外されていた。
「問《クエスチョン》、蘿蔔里利由を元に戻す手段が我々にあるなら、あなたは浮遊街と敵対することを厭いませんか。」
「あ?……またそれか…。」
「問《クエスチョン》、蘿蔔里利由を元に戻す手段が我々にあるなら、あなたは浮遊街と敵対することを厭いませんか。」
 一言一句同じ問い。融通のきかないロボットを相手にしている気分だ。
「ああ。それが本当に里利由のためになるならな?」
「問《クエスチョン》、蘿蔔里利由のためになるならば、あなたは何でも行いますか。」
「……しつこいな、そのつもりだけど?」
 ふ、と噴き出す音がした。女児の横に立つ男からだ。何がおかしい。
「蘿蔔里利由、問《クエスチョン》、あなたは折本キハルの判断に従いますか?」
 質問相手が突然切り替わり、ぬいぐるみの身体がぴくりと動いた。
「蘿蔔里利由、問《クエスチョン》、あなたは折本キハルの判断に従いますか?」
 ご丁寧に繰り返された質問へ。
「………うん。」
 里利由の返事はは珍しく歯切れが悪い。
「《質疑応答を終了します》」
 満足したのか、女児は話を終える。フードの人物に抱きかかえられ、そのまま夜道を走っていってしまった。
 残ったのは、うすら寒い笑みを貼り付けた男だけだ。
「それじゃあ取引と行こう。蘿蔔里利由ちゃんに、焼いてほしいものがある。それを焼き切ったら、元に戻してあげるよ。」

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 どうしてわざわざ、里利由に焼かせるのかはわからない。
 燃えて灰になっていく紙束を俺はただ、見つめていた。
「これ、「本」だよな。翻訳に使う……。」
「「本」なんて、なくなってしまったほうがいいと思わない?君は、翻訳の仕事が嫌だったんだろう。」
 それはそうだけれど、何も全部焼いてなくしてしまおうだなんて思っていなかった。
 男の翡翠色の瞳が、炎を反射して赤く光る。その目がふいにこちらを向いた。
「僕らは翻訳者のことなど覚えていない。」
「え?」
「だけれど何故だろうね。見ていると、虫唾が走るんだ。覚えていないけれど、わかるんだ。」
 男は笑っている。きれいに並んだ歯列を覗かせて、口の端を吊り上げて。赤い目だけが、笑っていない。
「よくも、ウイを殺してくれたね。それでよくも、《僕》をわかったような文章を綴れたね。」
 激情に燃える瞳を見て、男の顔に見覚えがあることに漸く気が付いた。

 炎が近い。煙を吸った肺が苦しい。
「里利由ちゃんはね、君の為にリズの問に肯定した。肯定してしまったんだ。本当はマサクル・ピンギキュラを疑っていたのにね。」
 目が痛い。煙が染みたのだ。
「彼女は君のことをよくわかっているよ。あの場で、折本キハルの判断を信じないという発言をすることはできなかった。
 折本キハルは、蘿蔔里利由に尽くすことで自分を保っている。それを知っていたから。
 君を無下にする返事はできなかった。
 君を頼っている、というポーズのために、リズの問に肯定したんだ。「君の判断に従う」と答えてしまった!
 聡明だったばかりに、彼女は回答を偽った!その結果が、この灰の山だ!
 問の回答通り、彼女は君の判断に逆らうことができなかった!
 蘿蔔里利由のためならなんでもするという、君の判断に!」
 目の前のこの男は。あの物語は。「本」というものの正体は。浮遊街に勤める、奇異な人々の出自は。
「シュンリン・クロンヴァール……?お前………シュンリン、か……?」
 俺の呟きは、熱で歪む空気に霧散する。もう遅いのだ、と漠然と感じた。今更気付いても、手遅れなのだ。




「彼女は後悔しているだろうね。恐らくもう、問いによる思考のバイアスはなくなっている。
 彼女は聡いから、自分のなしたことの意味をすぐに知ることだろう。」
 今、そこで焼失したものたちは。焦げた紙の残骸は、元々なんだったものなのか。
「彼女に罪を犯させたのは誰?」
 与えられた情報をまとめきれない。
「彼女に「本」を燃やさせたのは誰?」
 けれど、最後に残る結論だけはわかっていた。

「彼女に、《キャラクター》を永遠に葬らせたのは誰?」

 俺は、致命的な間違いを犯してしまったのだ。
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 なにが「里利由のため」だ。彼女のために、俺は何ができたというのだろう。
 里利由の身体は元に戻った。誘拐してきたという里利由の身体に、モルディニュと呼ばれていた大男が治癒をかけながら、魂の方の里利由が憑依するというかなりの荒業だった。
 マサクル・ピンギキュラは取引内容は守ってくれた。
 守ってくれたのは、それだけだ。

 里利由が泣くのを、初めて見た。
「きっちゃんは悪くない。きっちゃんは悪くないよ……。だってきっちゃんは、あたしのために頑張ってくれた……。」
 病室で俺の両手を握りしめ、里利由は涙声で訴えた。
 里利由のためにがんばった?それがなんになるんだよ。
「ごめん。もっと花君たちと情報を共有しておけばよかった。僕のせいだ。」
 そうだな田空賀、お前のせいだよ。お前も悪いよ。
 そしてその何十倍も、俺が悪い。
 いつだって明るくて、優しいこの幼馴染に、俺は

 ひとごろしをさせたのだろう。

 詳しい仕組みは知らない。けれど「本」の中には世界が存在していて、その中から出てくる人間がこの世界に存在しているならば。
「本」の中には確かに無数の生命が宿っているのだ。
 それを焼いて壊してしまったということは、少なくともこの幼馴染にとっては、人殺しと同義になる。
 彼女は強いから、それでも前を向いて生きていくだろう。
 だけれど、罪の呵責は彼女の天真爛漫な豪快さに、一生消えない陰を作る。
 
 俺がいなければ、里利由は間違えなかった。
 男の言うとおりだ。里利由が間違えてしまったのは、俺を気遣ったから。
 いてはだめなのだ。彼女の傍に、俺は不要なんだ。
 否、彼女の傍だけじゃない。きっと、誰の隣にも。

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 夏休みが明けても学校に行くことができなかった。完璧にやってのけた夏休みの宿題は、机の上に積まれたままだ。
 日角が、皐月が、わざわざ家まで尋ねにきてくれたけれど、素気無い対応をしてしまった。
「……体育祭の準備をしている。憂鬱なイベントだが、キハがいれば乗り切れる気がするんだ。」
「ごめん、サツキ。……お前なら、他のやつとも仲良くやってけると思う。」
「本気で言ってるのか?」
 皐月を一人にしてしまうことは、申し訳なく思う。でも、俺と一緒に居続けるよりはマシなんだよ。
 そう言うと、玄関に怒号が響いた。
 …ああ皐月、お前結構でかい声出るんだな。
 本気で殴ってこれ、というのは不安だけれど。日角、止めてくれてありがとう。いつも世話かけてごめんな。

 次にやってきたのは棟だった。
 自室に女子を入れるのは、里利由以外では初めてだ。かぐやは入れたことがない。
 最後に会った時よりやや日焼けしている。ウェーブヘアも少し色が抜けているので、夏はプールに行ったのだろう。
 後任のパートナーが見つかったんだろうか。……邪推だな。
「何があったか、会社経由で聞きました。」
「……。」
「里利由さんのメンタルケア、浮遊街の専門家がやってます。催眠術が得意なひとです。最悪記憶の封印もできます。
 ……先輩も、かかりますか。」
「忘れて、また同じ轍を踏めと?」
 無神経じゃないのか。不愉快に顔を歪める。返ってきたのは、憐れみの眼差し。
「そうは言いませんが……今の先輩は、見てられませんよ。好きだったひとがこんな風になってるの、アキラは嫌です。」
 開けた窓から風が吹き抜け、俯いた棟の髪が乱れる。窓を閉めた。
 ……好き「だった」、か。内心で自嘲する。多分顔には出ていない。笑うことなんて、ずっとできていない。
 棟は鞄を探っている。
「お見舞いに作りました。食べてください。」
「いらない。」
「浮遊街との関係を断つなら、いずれ記憶は消されますよ。先輩の意思如何に関わらずです。」
 棟が手にしているのは、ラッピングされたクッキーだ。
 パーティング・クッキー。浮遊街と棟に関する記憶を消すクッキー。
 焦げ目一つなくきれいに焼けている。、きっと味も見た目を裏切らないのだろう。
「……こうなってしまったそもそもの始まりは、アキラが先輩をうまく導いてあげられなかったせいだと思うんです。」
 それは考えすぎだ。浮遊街が棟にそれほどを期待していたのだとすれば、それは流石に荷が勝ちすぎている。
「だからせめて、アキラから引導を渡します。全部忘れて、先輩が日常に戻れるように。」
 クッキーが机の上に置かれる。
「また学校で、お会いしましょう。」
 棟が頭を下げて、部屋から出ていく。
 俺はそれを、ただ見ていた。
 クッキーを食べることも、捨てることもできずに。
 玄関の戸が閉められる音がする。

 ―それが、俺と世界を隔てる音に聞こえた。
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 存外、自分を訪ねる人間はいるらしい。とはいえ、この黒髪の同級生が最後だろう。他に思い当たる人物はいない。
 もっとも、もう少し不登校が続いたら担任は尋ねに来るかもしれない。その前に母親に追い出されそうだけれど。
「この世界に居場所がないなら、違う世界に行けばいい。あなたがあなたのことを嫌いなら、あなたでない誰かになれる所に行けばいいよ。」
「突然何言ってんの?」
「私はついていくから。あなたと一緒なら、世界ごと捨てていくから。」
 少女が、一冊の本を取り出す。色は違うが、装丁のデザインはこの三カ月ほどよく見たものだ。
 浮遊街の、「本」。
「………かぐや、それ、どこで。」
「どうだっていいことでしょう?」
 妖艶な笑みを浮かべ、かぐやは本をこちらに差し出す。
「え、嫌だよ。俺はもう翻訳はしたくない。」
「翻訳じゃないよ。この本はもう、ゲームオーバーは外してあるから。」
「あ?ゲームオーバーは外してある?」
「ゲームオーバーにならないってこと。死なない限り、本の世界から送還されることはないの。
 あなたは、物語の中の人々の命を奪ってしまったことがショックなんでしょう?
 だったら償いに、物語の中の人に命を与えるのはどうかしら。」
「……物語の中のひとに、命を与える?」
「そう。物語の中のひと…《キャラクター》は、そうやって現実に現れるんだって。」
 かぐやの言葉を咀嚼する。死なない限り本の世界から戻らない。命を与える。物語の登場人物が現実に現れる。
 ………ああ、そういうことか。入れ替わりなのか。

 この世界にいても、何の役にも立たないなら。
 折本キハルに なんの価値もないのなら。
 自分のせいで失われてしまったものに、少しでも報いることができるのなら。
 かぐやが、こちらを慈しむように微笑んでいる。

 俺は差し出された本に、手を伸ばす。

 置いていくことになるものを思い浮かべる。
 里利由はまた泣かせてしまうだろうか。記憶を消すなら、ついでに俺についての記憶も消してもらえないかな。
 皐月はまだ悲しんでくれるかな。喧嘩別れで、ちょうどよかったかもしれない。
 棟、気づかい無駄にしてごめん。責任は感じないでほしい。
 父さん、母さん、ごめん。不出来な息子でごめん。俺、無理だわ。

 現実に、耐えられそうにないんだ。

 END
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あとがき

やりたかったこと
・里利由と翻訳
・亜種のき
・スミレ寝返り
・異世界逃亡END

里利由ルートに見せかけて、かぐやと異世界逃亡エンド。ヤンデレ愛好家の作者歓喜。

このルートのキハルは里利由に依存し「彼女の為に」という大義名分を振りかざして行動。
里利由を傷つけたことに耐え切れず、引きこもりました。安定の豆腐メンタル。
そして、メンタルケアしてくれる人物が軒並み不在。皐月一人では力不足でした。

アキラは、キハルが里利由と一緒に翻訳し始めた時点で恋を諦め始めていたかと思われます。
アキラの中では、キハルは里利由のことが好きだってことになっているので、入る余地が見つからなくなってしまったのです。


亜種のきは、楠との区別のため私は「樟」(くすのき)と表記します。
敵に回したくないキャラクター第一位は伊達じゃない。彼を敵に回したらキハルの人生は詰みます。
ちょっと翻訳で選択肢間違えただけでこれとは。心狭すぎでは?
スミレの誘拐戦略が変わっているのは、樟の目的が楠と違うため。
先生は花火のせいで使い物にならなくなっています。

リズの問は初見殺し。本編でキハルがリズに出会わなかったのは必然のような気がしてきますね。
問いの内容を考えたのは、底意地の悪さから考えて樟ですけれど。

かぐやENDではあるけどかぐやルートではなくない?!
そうですね!すいませんね!
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